須山浅間神社
静岡県裾野市須山に鎮座する須山浅間神社。富士山南東麓・須山口登山道の起点として、中世から近世にかけて多くの道者と修験者を受け入れてきた、富士信仰における重要な拠点である。
主祭神は木花開耶姫命(このはなさくやびめのみこと)。社伝によれば、日本武尊が東征の折にこの地で富士の神を祀ったのを創祀とすると伝えられ、古来「須山富士浅間宮」とも称された。富士山中の信仰圏において、北の吉田口、西の村山口・大宮口、東の須走口と並ぶ「四方の登山口」の一つを占める社であり、富士山頂への参道を司る要所であった。
中世から江戸時代にかけて、村山修験(村山三坊)が組織的に執行した「富士峯修行(ふじみねしゅぎょう)」の巡礼ルートにおいて、須山は下山後の重要な札打ち場として位置づけられた。山伏たちは旧暦八月三日に須山口へ下山し、須山浅間神社に札を打ち、一晩参籠して加持祈祷を行うのが慣例であった。仏名や神号を書いた札を社殿に打ち付ける「札打ち」は、富士山中で蓄えた霊力を麓の地域に行き渡らせる修行の所作である。
江戸時代に入ると、伊豆や相模方面、あるいは東海道の吉原宿方面から十里木を経由してやってくる道者の重要な受容口として賑わいを見せた。一合目には役所が置かれ、山役銭(通行税)の徴収と手形の照合を経て、木戸を開けて登山を許可する体制が整えられていた。山頂支配権をめぐっては須山口独自の権利を主張しつつも、安永八年(一七七九年)の幕府裁許により、八合目以上は富士山本宮浅間大社(大宮)の支配と定められた。
しかし宝永四年(一七〇七年)の宝永噴火により、須山村と登山道は壊滅的な被害を受け、大量の降灰と砂礫により登山道は埋没、約三十年間にわたり登山不能の「廃道」期を迎えた。安永九年(一七八〇年)ごろにようやく登山道が完全に再興され、寛政年間には山中に石室(宿泊施設)も整備されて、再び道者の姿が戻ってきた。幕末の地誌『富士の歴史』には、当時は大宮や須走よりも盛況であった時期さえあったと記されている。
明治十六年(一八八三年)、鉄道駅(現在の御殿場駅)からのアクセスが容易な御殿場口が新たに開削されると、徒歩での道程が長い須山口の利用者は急減し、再び長い停滞期に入った。二〇一三年(平成二十五年)、富士山が世界文化遺産に登録された際、須山浅間神社と登山道の一部(標高約一二〇〇〜二〇〇〇メートル付近)は、その歴史的価値が認められて構成資産の一部となった。幾度もの火山災害と交通体系の変化に翻弄されながら、富士山南東麓の祈りの拠点を守り続けてきた歩みが、今ここに静かに息づいている。


