辻之坊墓所
村山三坊の一つ、辻之坊の墓所である。辻之坊は天文二年(一五三三年)の史料に「寺務代」として名が見え、戦国大名今川氏から村山修験の代表としての権利を安堵されていた。後には駿東の豪族・葛山氏の一族がこれを継承した。村山浅間神社の七社浅間の別当を務め、山伏の統括や山中の参銭管理を担うなど、中世から近世にかけて村山修験の運営の中枢にあった坊である。
檀那場(信者圏)は越後・信濃・伊豆・上野など東国に広がり、配下の先達が各地を巡って神札を配り、富士参詣を勧めた。登山期には道者を宿坊に迎えて祓いと祈祷を施し、村山口登山道を山頂へと導いた。山中で徴収される山役銭や六道銭の管理も辻之坊の重要な職掌であり、それは村山修験と浅間大社の経済を支える基盤でもあった。
江戸時代後期、辻之坊は無住(住職不在)となり、江戸の触頭寺院である大聖院が兼帯するなどの変遷を経て、明治の神仏分離を待たずにその歴史を閉じていった。
いま残るのは墓所だけである。苔むした石塔が並ぶその静けさの中に、戦国大名と渡り合い、東国の道者たちを富士山頂へと導き続けた修験の坊の数百年が畳み込まれている。村山の地に三坊が鼎立し、富士登拝の全盛を支えた時代の証人として、この墓所は今も集落の片隅に立ち続けている。






