河口浅間神社

山梨県南都留郡富士河口湖町河口に鎮座する河口浅間神社。富士山北麓・河口湖北岸の地に座し、富士山の荒ぶる力と人々の祈りが交錯した歴史を象徴する、富士信仰の原点の一つというべき聖域である。

社伝によれば、貞観七年(八六五年)、前年の富士山貞観大噴火(八六四年)を鎮めるため、伴直真貞(とものあたいまさだ)が浅間大神を勧請して祀ったことを創祀とする。延長五年(九二七年)の『延喜式神名帳』に記された甲斐国八代郡の名神大社「浅間神社」の有力な比定候補とされ、富士御室浅間神社とともに古代における甲斐の浅間信仰の中心的存在であった。

河口の地は、古代官道である「甲斐路(御坂路)」の駅家「河口駅」が置かれた要衝であり、甲斐国府(現・笛吹市付近)から御坂峠を越えて富士山へと向かう参詣路の起点であった。鎌倉時代から戦国時代にかけては「鎌倉往還」として整備され、多くの武将や修験者がこの道を往来した。武田信玄が娘の安産祈願として「登山道の関所を撤廃する」と誓った願文なども伝えられ、地域の権力者からの崇敬は篤かった。

江戸時代に入ると、この社は「富士山北口本宮」とも称され、富士山北麓における信仰の中枢として重きをなした。また河口は「富士山御師(おし)」の発祥の地とされ、最盛期には一四〇もの御師坊が軒を連ね、全国から訪れる参詣者(道者)を迎え入れた。御師は神主であると同時に宿の主人でもあり、富士登拝の信仰実践と日常の暮らしを結ぶ重要な仲介者として、富士山信仰の組織化に大きな役割を果たした。

境内には「美麗石(みあらいし)」と呼ばれる古代祭祀の磐境(いわさか)が伝えられている。伴直真貞が浅間大神を初めて祀った際の祭祀跡とされ、『日本三代実録』に「彩色美麗にして言うに勝うべからず(非常に美しく言葉では表せない)」と記された噴火鎮祭の神宮の記述が、この石の名の由来とされる。地元では「ひいら石」とも呼ばれ、この石の上に上がると祟りがあるという畏敬の念をもって、千年余りにわたり大切に保護されてきた。

二〇一三年、富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録された際、河口浅間神社はその構成資産の一つに数えられた。荒ぶる火山を神として鎮めるという古代の火山神祭祀の原初的な形態を今に伝えている点、山麓からの「遥拝」から山頂を目指す「登拝」へと信仰が変化・拡大していく過程において、河口湖北岸の拠点として果たした歴史的役割が、世界的な普遍的価値の重要な要素として評価されている。

写真は新緑の境内、随神門の石段、拝殿、内部の富士山を描いた絵馬と神威ある内陣、美麗石の案内、そして「鎮國」の額がかかる賽銭箱と本殿。巨木の立ち並ぶ社叢の中で、千二百年余りの祈りの記憶が静かに息づいている。