池西坊跡地
村山三坊の一つ、池西坊の跡地である。池西坊は伊勢国司・北畠氏の血を引くと伝えられる修験の坊で、康暦二年(一三八〇年)に存誉上人が開創したという記録も残る。村山三坊の中では、富士山興法寺の中心施設である大日堂(本地堂)の別当を務め、堂の祭祀と管理を担った。
檀那場(信者圏)は山城・伊賀・遠江・伊勢など畿内・東海方面に広がり、配下の先達が各地を巡回して神札を配り、富士参詣を勧めた。登山に訪れた道者は池西坊に宿泊して祓いと祈祷を受け、山伏に導かれて村山口登山道を山頂へと向かった。登山の過程で山役銭や六道銭を納める仕組みも整えられ、それが坊と興法寺の維持を支えていた。
明治の神仏分離により修験道が禁止されると池西坊も廃絶した。一族は還俗して「富士」を名乗ったが、次男が修験を継承して「北畠」姓を称し、その法脈は現在まで続いている。廃絶から百五十年を経て、坊のあった場所に往時を伝えるものは少ない。それでも村山の集落を歩けば、ここがかつて全国から道者を迎え入れた宿坊の町であったことが、地形や石垣の佇まいから静かに立ち上がってくる。
神と仏が分かたれる以前、富士山に登ることがそのまま修行であり祈りであった時代——その記憶を地中に抱いたまま、跡地は今日も富士山の麓に在り続けている。



