東口本宮冨士浅間神社
静岡県駿東郡小山町須走に鎮座する東口本宮冨士浅間神社、通称「須走浅間神社」。富士山須走口登山道の起点として、関東や東北方面からの道者を受け入れる「東の表口」として古くから栄えた、富士信仰の東麓側における最重要拠点である。
社伝によれば、延暦二十一年(八〇二年)の創建と伝わる。富士山の噴火を鎮めるため、神霊を祀ったことに始まるとされ、主祭神は木花開耶姫命(このはなさくやびめのみこと)。富士五口(吉田・須走・須山・大宮・村山)のうち東山口の起点を司る社として、千二百年以上にわたり富士信仰の一翼を担ってきた。
須走口は、相模国(神奈川県)側から足柄峠を越えてくる道者が多く集まる、関東一円からの参詣者の主要な受容口であった。戦国時代には「須走道者関」が置かれ、登山道者から通行税である「山役銭(過書銭)」を徴収していた記録が残る。下山時には六合目から一合目付近まで一気に駆け下りることができる「砂走り」の利便性があり、他口から登った者も須走口へ下山することが多かった。八合目で吉田口と合流するため、江戸時代には「東の表口」とも称され、信仰の拠点として非常に栄えた。
同神社が所蔵する宝暦年間(一七四〇年)の「三国第一富士山御神系」図には、榊と宝珠を持ち冠を戴いた木花開耶姫命の御影が描かれている。これは、富士山の祭神が中世の赫夜姫(かぐやひめ)から木花開耶姫へと転換していく過程を示す、年紀をもつ唯一の貴重な例とされ、富士山信仰史を考える上で極めて重要な史料である。
しかし宝永四年(一七〇七年)の宝永噴火により、須走村は壊滅的な打撃を受けた。村全体が「全滅」と称されるほどの降灰に埋もれ、積灰の深さは一丈(約三メートル)にも達し、社殿も屋根まで没したと記録されている。噴火直後、神主の小野民部らは幕府へ惨状を上申。村の再建のため幕府から一八〇〇両の御救金(おすくいきん)が給されたが、社殿の修理は困難を極めた。正徳五年(一七一五年)に代官・伊奈半左衛門の添え状を得て江戸での勧化(募金活動)が許可され、さらに小田原藩主・大久保氏の助成も受けて、寛保二年(一七四二年)に本社・幣殿・拝殿などが銅葺きで新営され、現在の荘厳な社観が整えられた。
二〇一三年、富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録された際、東口本宮冨士浅間神社はその構成資産の一つに数えられた。古代の火山神祭祀に始まり、中世以降の修験、近世の富士講といった重層的な信仰の歴史を今に伝える、東麓側の最重要拠点として評価されている。境内に残る「須走のハルニレ」(県指定天然記念物)などの巨木群や、江戸時代から続く社殿群は、信仰登山によって育まれた文化的景観の重要な構成要素となっている。
写真は秋晴れの朱塗りの拝殿と、五月の雨に煙る境内、しめ縄越しの「冨士山東宮」の額。幾度もの火山災害を乗り越え、関東一円の富士信仰を支え続けてきた歩みが、両時季の風景の中に重ねて息づいている。










