村山浅間神社
村山浅間神社は、富士山修験の中核を担った「村山修験」の拠点である。平安時代末期の十二世紀半ば、富士山への登拝を数百回重ねたと伝わる末代上人が、修行の拠点として興法寺を建立したことに始まる。末代上人は山頂に大日寺を構え、富士山を大日如来の霊場として開いた人物であり、富士山が「拝む山」から「登る山」へと変わっていく転換点にこの寺は立っていた。
興法寺は中世、「村山三坊」と呼ばれる有力な坊——大鏡坊・池西坊・辻之坊——によって運営され、修験者が一般の道者を導いて登頂する「富士行」の形態をここで確立した。村山を起点とする富士山興法寺村山口登山道は古くから「表口」と呼ばれた主要登山道であり、修験者の修行の道として発展した。江戸時代には関西・東海方面からの登拝者が主にこの口を利用しており、道者たちは村山の水垢離場で富士山の霊水に体を清めてから山頂を目指した。山伏の衆徒が道者を勧誘し宿坊を経営する層と、先達として登拝を案内する山伏の二つの階層が共存し、武士・貴族・庶民を問わず幅広い層の登拝を支えた。
境内の大日堂は興法寺の中心施設で、浅間大菩薩の本地仏である大日如来を祀る。現存する主要な木造大日如来坐像(金剛界)の胎内からは「大宮司前能登守忠時 同子息親時」の銘文が発見されており、富士山本宮浅間大社大宮司家と村山の間の深い協力関係を物語る。また鎌倉時代の正嘉三年(一二五九年)の銘を持つ像も現存し、この地の信仰の古さを示している。登拝者が山に入る前に冷泉で身を清めた水垢離場も残り、江戸時代には関西方面から来た富士行人たちがここで水を浴びてから山頂を目指した。
明治の神仏分離令と明治五年(一八七二年)の修験道禁止令は、神と仏が渾然一体となっていたこの村山に決定的な打撃を与えた。興法寺は解体され、大鏡坊・池西坊・辻之坊の三坊は廃絶した。廃仏毀釈の嵐の中でも、仏像の破壊を恐れた人々が山頂の仏像を自らの背で運び降ろして守ったという記録が残る。富士山頂の東賽の河原に安置されていた鉄造観音菩薩坐像(一四九三年銘)も、この時期にいったん村山へ降ろされ、のちに東京の題経寺(柴又帝釈天)へ移された。
村山口にとって致命的な転換点となったのは明治三十九年(一九〇六年)の大宮口新道(カケスバタ口)の開通であった。老若男女が歩きやすいこの新道の出現により、関西からの登拝者の多くが大宮口へと流れ、修験の道として七百年以上にわたって富士登拝の中心だった村山口は急速に衰退した。かつて「表口」と称された道は時代に取り残される形となり、江戸時代まで続いた村山修験の活況は完全に幕を閉じた。
大日堂と浅間神社が並び立つ境内の構成そのものが、神仏習合時代の富士山信仰の姿を雄弁に伝えている。二〇一三年、「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録された。






































