扶桑教元祠
富士宮市に鎮座する扶桑教の元祠。写真は八月の還幸祭に参加した際の模様で、白装束の行者たちが杉並木の参道を行列し、素木造の社殿での神事に臨んでいる。
扶桑教は、明治維新後の神仏分離と民俗信仰への統制により存亡の危機に瀕していた富士講の諸派を統合して生まれた教団である。明治六年(一八七三年)に「富士山一山講社」として結成され、明治八年に「扶桑教会」と改称、明治十五年(一八八二年)に「扶桑教」として一派独立を果たし、神道十三派の一つに数えられた。江戸時代に長谷川角行を祖として発展した富士講の法脈を、近代神道の枠組みの中で維持・継承する役割を担ったのである。
創始者の宍野半は薩摩藩出身の郷士で、国学者平田鉄胤の門下に学んだ。明治四年に富士大宮司家(富士家)による神職世襲制が廃止された後、明治六年、富士山本宮浅間大社の初代宮司として赴任し、北口・須走口・須山口・村山口の各登山口の神社の祀官も兼務した。明治七年には山頂の大日堂から仏像を撤去して浅間大神を祀る奥宮へと改め、薬師ヶ嶽を久須志嶽とするなど山中の仏教的地名の改称を実現させた。富士山の信仰風景を神道へと塗り替えた、明治の富士山史の中心人物である。明治九年(一八七六年)には浅間大社から山頂金明水の傍らの土地百坪を借り受け、造化大神を拝する「天拝所」を建立した。これが扶桑教の山頂における根源の聖地、すなわち元祠の淵源である。
数百年にわたり富士講を支えた白装束と「六根清浄」の唱和は、今もこの教団の祭礼に息づいている。杉木立の参道を行く行者の列に、江戸から現代へと続く富士山信仰の連続を見ることができる。





