小室浅間神社(下宮浅間)
富士吉田市下吉田に鎮座する小室浅間神社。通称「下宮浅間(しもみやせんげん)」として親しまれ、富士登拝の玄関口・吉田の町において、特に下吉田の暮らしと祈りを長く支えてきた地域密着型の聖域である。
社伝によれば大同二年(八〇七年)の創建と伝わり、古くは「下宮浅間明神」と称された。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやびめのみこと)。富士山本宮浅間大社と同じく富士山の主神を祀るが、この社は地元の暮らしと結びついた村氏神としての性格を強く帯びてきた。もともとは上吉田・下吉田・松山の三ヶ村の産土神(うぶすながみ)であったが、後に各村に独自の氏神が成立する中で、実質的に下吉田一村の村氏神となった。
江戸時代には近隣の月江寺(げっこうじ)の鎮守とされ、神仏習合の形態をとっていた。祭礼時には別当寺である月江寺の僧侶が参列して読経を行うのが慣例であり、明治初期の廃仏毀釈の際には、月江寺との境界争いや仏教色の排除をめぐって、御師や村役人たちが神社側の立場から強く運動した記録が残っている。
最大の特徴は、毎年九月の例祭で執り行われる流鏑馬神事である。単なる武芸の奉納ではなく、天下国家の祈祷とともに、射儀の結果で一年の吉凶を占う占いの神事であり、特に「馬の足跡」のつき方によって火難(火災の発生)を占うという、全国的にも珍しい独自の民俗的性格を持つ。吉田口登山道を三里ほど登った草山と木山の境界付近には「烏(うます)の馬場」と呼ばれる地があり、史料に「古は浅間祭礼に流鏑馬ありし地」と記されている。流鏑馬が神域へ踏み込む際の浄化儀礼として行われていた古い記憶を留める地名である。神事は元来四頭の神馬によって執り行われていたが、明治維新後の混乱で頭数が乱れ怪我人が出たため、明治十七年に「小室浅間社流馬議定」が結ばれて規約が改められた。現在は二頭の馬がこの伝統を受け継いでいる。境内の神馬舎には、江戸時代には木造の神馬像が安置されていたという。
中世の下吉田は、富士参詣の受け入れ拠点としてすでに厚い実績を持っていた。月江寺の末寺・祥春庵は応永年間(十四世紀末〜)から富士道者の宿泊を担い、その住職は夏の登山期には宿坊の主、秋以降は諸国を巡って神符を配るという、御師と全く同じ活動を行っていた。明応五年(一四九六年)には堀越公方・足利茶々丸が下吉田の正覚庵に宿泊して富士登山を行った記録も残る。戦国期には郡内領主・小山田氏がこの地を支配し、月江寺の諸役を免除し、御師たちに関所の自由通行を認める一方で軍役を課す体制を整えていた。
下吉田もまた上吉田と並ぶ御師の町であり、御師たちは江戸を中心とした関東一円に広大な檀那場(だんなば)を持っていた。富士講の講員(道者)たちは下吉田の御師宿坊に宿泊し、この神社に参拝してから富士山を目指した。上吉田で子が生まれた際にも、百日後の初宮参りではまずこの下宮(小室浅間)を詣でるという古い習俗が記録されており、富士信仰の中で「上下一対」の役割を担い続けてきた社である。
写真は雨上がりの拝殿と、境内の神馬舎。木造の質素な舎の中に佇む神馬の姿に、千二百年にわたるこの社の物語が静かに息づいている。



