宝幢院跡地

宝幢院は、富士山本宮浅間大社の別当寺として大宮(現在の富士宮市街地)に置かれた真言宗寺院である。京都・醍醐寺(報恩院)を本寺とし、浅間大社の神事や法会を仏教的立場から統括した。村山の三坊が山伏を率いて登拝の道を支えたのに対し、宝幢院は浅間大社の社僧をまとめ、大宮司・別当・公文・案主からなる「四家」の一角として、大宮司家とともに社務の中枢を担った。

神と仏が分かちがたく結びついていた時代、浅間大神は浅間大菩薩として崇められ、その祭祀には仏教の法会が欠かせなかった。宝幢院はその仏事の責任者として、大宮の門前町に確固たる地位を占めていたのである。

明治元年(一八六八年)の神仏分離令は、この体制を根底から覆した。当時の別当・見晃は還俗して「富士神一郎」と改名し、浅間大社の大神主となった。これにより寺院としての宝幢院は廃絶し、千年近く続いた浅間大社の神仏習合の祭祀体制は終焉を迎えた。

跡地に堂宇は残らない。しかし、別当が還俗して神職の頂点に立ったという経緯そのものが、この場所が担っていた役割の大きさを物語っている。富士山信仰の歴史は、神社の社殿だけでなく、こうした失われた寺院の記憶によっても編まれている。大宮の街を歩くとき、その地層の下にある神仏習合の時代に思いを馳せたい場所である。