孝昭天皇 掖上博多山上陵
奈良県御所市三室、葛城の地に治定される掖上博多山上陵(わきがみのはかたやまのうえのみささぎ)。第五代孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇命・みまつひこかえしねのすめらみこと)の御陵として、宮内庁により管理されている。富士山から遠く離れた大和の山陵が、なぜ富嶽記の一頁を占めるのか──それはこの皇陵が、富士山祭祀を担い続けた富士家(富士大宮司家)にとって、家の根源を遡る精神的な原点であるためである。
富士家の系譜伝承によれば、富士家は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とする和邇部(わにべ)氏の流れに位置づけられる。『和邇氏系図』『別本大宮司富士氏系図』などの家伝書には、孝昭天皇から十七代目の子孫にあたる和邇部臣豊麿(わにべのおみとよまろ)が、延暦十四年(七九五年)に駿河国富士郡の大領(郡司の長)となり、延暦二十年(八〇一年)に富士浅間大神の祭祀を掌ったことが、富士氏のはじまりとして記されている。豊麿から十四代目の「時棟(ときむね)」の代に初めて「大宮司」を称し、十五代「直世(なおよ)」の時に初めて「富士」の氏を称したと伝えられている。
明治二十九年に建てられた富士大宮司邸「芙蓉館」の碑文にも、「富士氏は孝昭天皇の皇子……天足彦国押人命にいで、姓は和邇部氏なり」と刻まれている。富士家が孝昭天皇を祖とした背景には、皇別氏族として富士山の神を祀ることで、単なる地方豪族ではなく天皇に連なる高貴な血統をもって国家的な霊峰の祭祀を担うことを示そうとした、宗教的・政治的意図が見える。
「和邇部」の氏名が示すとおり、この一族の本拠は大和国・和邇(現在の奈良県天理市和邇付近)にあった。大和の和邇は弥生時代以来の集落遺跡が密集する古い地で、やがてその氏族の一系が「和邇部」の姓を帯び、天皇家の従者集団として組織化された。後に一部が地方の郡司として派遣され、その流れの中に豊麿が位置づけられる。そして系譜に目を向けると、一つの問いが浮かぶ。孝昭天皇の在位年代は記紀の伝統的な暦では紀元前四七五年、修正年代論でも三〜四世紀頃とされる。一方、豊麿が駿河大領となるのは延暦十四年(七九五年)である。その間には実に千年以上の時間が横たわっており、一世代を三十年で数えても三十世代を超える。しかし系譜には「十七代」とある。この代数の圧縮は古代氏族の系譜に広く見られる現象で、家格と祭祀の正当性を高めるために、中間の世代を省略・創作して皇室との血縁を短く見せることが行われた。富士家にとってこの系譜が必要だった理由は明快である——天皇に連なる血統を証明することで、富士山という国家的な霊峰の祭祀者としての地位を疑いなきものとするためであった。
『和邇氏系図』には、孝昭天皇が崩御した際に「葬テ掖上博多山」に葬られたと記されており、この記述が現在の掖上博多山上陵に対応している。学術的には、孝昭天皇自体が「欠史八代」の一人で実在性が疑われ、富士家が「和邇部」の姓を公的に使い始めるのも史料上は室町時代の寛正三年(一四六二年)が初見であることから、この祖先伝承は後世の創作とする見方も有力である。しかし真偽は別として、千年以上にわたって富士家が皇祖と仰いできた存在の眠る場所であることに変わりはない。
写真は春のうららかな住宅街の一角に静かに佇む御陵と、その入口の鳥居・宮内庁の制札、参道脇の小さな摂社、そして「孝昭道」と刻まれた石額の鳥居。古墳時代以前の伝承上の天皇の陵という性格上、御陵そのものは玉砂利が敷かれた質素な空間だが、その背後に重なる二千数百年の時間の厚みが、駿河国富士山頂の祭祀へと一本の細い糸でつながっている。












