人穴富士講遺跡・人穴浅間神社
人穴富士講遺跡は、富士講の開祖・長谷川角行が修行し入滅したと伝わる聖地である。人穴は新富士火山の犬涼み山溶岩流(約一万一千〜八千年前)の末端に形成された全長約八十メートルの溶岩洞穴で、洞内は「御胎内」とも呼ばれ、最奥部に浅間大神と大日如来が祀られてきた。天井から冷水が滴り、底部に溜まる水は霊水とされた。
人穴が文献に現れるのは鎌倉時代の建仁三年(一二〇三年)、『吾妻鏡』に「浅間大菩薩の御在所」として記録されたときである。この記事を種として室町時代に成立した縁起物語『富士の人穴草子』は、二代将軍・源頼家の命を受けた家臣・仁田忠常が主従で穴に入り、大蛇の姿をした浅間大菩薩と出会う物語を描く。菩薩は忠常を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道」を巡る旅に連れ、見たことを草子に書き留めるよう命じる。しかし帰還した忠常が頼家に内容を打ち明けてしまったため、二人とも命を落とすという結末を迎える。この物語は、人穴が単なる地形ではなく現世と異界の境界として機能していたことを示している。
戦国時代末期の永禄年間、長谷川角行(藤原角行)は夢のお告げに従ってこの穴に入り、洞内の冷水の中に四寸五分角の角材を立て、その上で爪先立ちする「立行」を千日間続けるなど過酷な修行を重ねて悟りを開いたと伝えられる。角行は正保三年(一六四六年)、この洞穴内で百六歳で入滅したとされ、以後も法脈を継ぐ行者たちの修行が続いた。
洞穴を「御胎内」と呼ぶ観念は、単なる比喩ではない。暗闇と霊水の中を進み、最奥で神仏に対面し、再び光の世界へ出てくる体験は、一度「死後の世界」を潜り抜けて生まれ変わるという擬死再生の儀礼として機能した。『人穴草子』が描く六道めぐりの構造もこの宇宙論を裏書きする。洞内に滴る霊水、最奥の神仏、そして地上への帰還——この三段の構成が、巡礼者に霊的な死と再生を体験させる装置であった。
江戸時代に富士講が隆盛すると、人穴は開祖入滅の地として「西の浄土」と崇められ、極楽往生や再生を願う富士講信者の最も神聖な巡礼地の一つとなった。境内に立ち並ぶ二百基を超える碑塔群は、江戸から明治にかけて関東の講社が角行の顕彰・先達の供養・登拝記念・分骨のために建立したもので、碑銘には丸不二講・山三講など多彩な講名が刻まれている。享保十八年(一七三三年)、富士講中興の祖・食行身禄(じきぎょうみろく)が吉田口七合五勺の烏帽子岩で断食入定してのちも、人穴は角行に連なる富士講「西の聖地」として講員の参詣が絶えなかった。
かつて人穴の傍らには角行の供養と行者の世話を担う光侎寺(史料では光休寺・光保寺とも表記される)があり、その中心施設の大日堂に大日如来が祀られていた。明治の神仏分離・廃仏毀釈で大日堂は取り壊され、現在は人穴浅間神社となっている。二〇一三年、「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録された。洞穴の闇と碑塔の静けさの中に、庶民信仰の熱量がいまも封じ込められているような場所である。











































































